東法人会 №97
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明治末年頃の後楽園の鶴写真提供:(公社)岡山県文化連盟 後楽園の正門を入って左手の閑静な一角に鶴の飼育舎があります。時折、甲高い一声が響き渡り、訪れた人を驚かせます。鶴は世界で15種類、日本で見られるのは渡り鳥を含めて7種類ほどですが、特別天然記念物としてのタンチョウは約2千羽程度で、主に北海道東部の湿原に分散している留鳥です。 江戸期には、鶴はその肉が献上品として後楽園で飼育されており、文久3年(1863年)の絵図には、「ツルベヤ」12部屋が記載され、芝生に5羽、砂利島に2羽の鶴の姿が描かれていますが、後楽園の鶴はタンチョウ(丹頂)です。 かつて岡山の第六高等学校で学んだ郭沫若氏が1955年12月14日に、中国学術文化代表団団長として来岡した際、後楽園には鶴がいないことを残念に思い、漢詩を即興でつくり、鶴の寄贈を約束。二羽の鶴は引き上げ船「興安丸」に乗り、1956年7月4日に岡山にやってきました。漢詩は、「後楽園仍在 烏城不可尋 願将丹頂鶴 作対立梅林」(読み下し文:後楽の園はなほあれど 烏城尋ぬ可からず 願はくは丹頂の鶴をもって 作対して梅林に立たしめん(林秀一氏))郭沫若氏の詩碑 漢詩は、後に郭沫若氏が書にし、この書を基に1959年、詩碑建設委員会(田中文男六校同窓会長)が結成されて有志の寄付50万円が集まり、1961年4月3日に青銅版に刻まれた石碑が鶴舎近くに建立されました。 詩の中の「梅林の鶴」については、アララギ派の歌人、中村健吉氏が「春寒き梅の疎林をゆく鶴の高く歩みて枝をくぐらず」とタンチョウの美しい姿を感動的に詠み、園内南に広がる梅林の中に歌碑が建てられています。当時は、タンチョウが自由に園内を歩んでいたのでしょう。 郭沫若氏から送られてきた鶴を長野知事は釧路に送り、釧路市の協力も得て、伴侶を見つけさせ、後楽園での繁殖が始まりますが、担当者は、後に「鶴のお父さん」といわれる井口萬喜男氏。岡山県自然環境課によると、現在では、後楽園に8羽、本格的な飼育施設のある岡山県自然保護センター(和気町)に39羽、きびじつるの里(総社市)に11羽、そして蒜山タンチョウの里(真庭市)に2羽が大切に育てられています。 明治維新後、薩摩から赴任した初代の県令、高崎五六氏は鬼県令、鉄腕県令と評されていましたが、後楽園はお気に入りだったそうで、「鶴鳴館」は五六氏が命名し、その力強い横額が残されています。因みに「鶴見橋」も五六氏の命名です。また、五六氏は郷里からソテツを取り寄せ、後楽園のソテツを復活させています。 タンチョウは正月や開園記念日(3月2日)の他、時折、放鳥され優雅な姿を見せますので、お楽しみに!高崎五六書「鶴鳴館」写真提供:岡山後楽園(このエッセイはひとまず幕を閉じます。お付き合い頂きました読者に小生自筆の「鶴」の色紙10枚をプレゼントさせていただきますので、事務局までお申し出いただければ、幸甚です)文化探訪   シリーズ⑭公益社団法人岡山県文化連盟元専務理事 曽田 章楷中村健吉氏の歌碑後楽園のタンチョウ写真提供:岡山後楽園--15

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