岡山東 №96
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文化探訪   シリーズ⑬公益社団法人岡山県文化連盟元専務理事 曽田 章楷 今日、後楽園はミシュランガイドで三ッ星と評価され、世界的なガーデンとして外国人観光客が増加していますが、後楽園築庭当時の園域はさほど広くなく、沢の池も未完成でした。その後、徐々に面積を広げ、建物も次々に整備され、今日の姿になっていきます。後楽園の作庭は池田綱政、造園奉行は津田永忠です。 永忠の業績は、社倉の設置、新田開発、岡山・閑谷藩校建設等々枚挙に暇ないが、意外にも当時は熊沢蕃山ほど知られてなく、残念に思った旧臣が明治18(1885)年に池田章政に陳情。章政は改めて永忠の業績を辿り、碑文を作成。そうして明治29(1896)年に津田永忠顕彰碑が後楽園東北隅に建てられました。園内唯一の碑石です。碑文の書は明治を代表する書家、日下部鳴鶴で、北魏時代の雄渾な書風を基にした書体で知られ、この碑文も伸びやかで隙がなく品があり格調の高く堂々としてものです。 碑文中、章政が後楽園を「茂樹嘉か葩はあり、怪巌奇石あり、鶴舞ひ魚躍れる庭園泉池」と絶賛しているように、後楽園は池を中心に歩きながら景色を楽しむ、いわゆる回遊式庭園ですが、まず、園内を眺望できる延養亭が重要な要素で、ここから茶畑、竹藪、借景としての操山と多宝塔(瓶井の塔)、遠くに芥子山が望めます。作庭当初は、築山(唯心山)はなく、樹木もさほど高くなかったので、眺望を楽しむことができました。津田永忠顕彰碑 後楽園は四季を通じて日本庭園の魅力に接することができ、花を例にとると、正月を過ぎると百花に先駆けて咲く花、梅が待ち遠しくなります。ちなみに、江戸の探梅は夜出かけるのが通とされているように、香りを深く楽しんだもので、新しい着物で梅の香を移す楽しみもあったそうです。蝋梅、桜も続きますが、当時の桜はソメイヨシノではなく、山桜です。以後、ボタン、唯心山のサツキ群、八ツ橋のカキツバタや花菖蒲、フジと続きますが、特筆すべきは花葉の池の大賀ハス。昭和31(1956)年4月17日に岡山市出身の大賀一郎博士を迎えて池田厚子様の手で植えられたそうです。ハスは大賀博士が千葉県の検見川の弥生式遺跡の地中深くから3粒採取し1粒の発芽に成功したもので、二千年の眠りから覚めた清楚なハスが夏の暑さを忘れさせてくれます。 「伝統は絶えざる革新を通じて確立していく」とは、伊勢﨑淳先生(人間国宝)の言ですが、後楽園の大賀ハスも今やなくてはならない位置を占めています。 後楽園は、昭和9(1934)年の室戸台風、そして昭和20(1945)年の戦火炎上に見舞われましたが、徐々に復元され、芸術の粋も結集されます。例えば、利休堂(茶祖堂)内の利休像は平櫛田中、能舞台の鏡板の松・竹の絵は池田遥邨です。観射亭の屋根覆いの備前焼の陶蓋は山本陶秀作でしたが、今は見当たりません。 後楽とは何か。後楽は次の世代が楽しむ、そのために今を生きる私たちは、永忠の後楽園作庭の思いを忘れることなく、先人の叡智と努力の結晶を次の世代に確実にバトンタッチしていく責務があります。延養亭流 店 最後に、後楽園の解説は、岡山文庫「岡山後楽園」に詳しく、中村昭夫氏の130枚にわたる写真もすばらしい。本稿はこの本を参考にしながら書かせていただきました。茶 畑--11

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