東法人会 91号
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文化探訪   シリーズ⑧公益社団法人岡山県文化連盟アドバイザー 曽田 章楷 岡山市中区にある京橋は、1904年(明治37年)4月に相生橋が開通するまでは、城下町岡山の交通の要衝となる唯一の橋で、江戸期に6回、明治以降に2回架け替えられています。2000年(平成12年)には日本建築会推薦土木遺産となり、また、橋梁工学の専門家である大阪市都市工学情報センター理事長の松村博氏が、その著書『日本百名橋』において京橋を日本百名橋の一つに選定しています。 この京橋北側の河川敷で、恒例の備前岡山京橋朝市が7月3日(日)に開催されました。1989年(平成元年)9月に市政施行100周年を記念して住民有志により開催された朝市は、今では第350回となり、すっかり岡山に定着した名物行事になっています。 さて、京橋朝市をPRする懸垂幕が旭川右岸の土手にある高さ21.1m、四脚の鉄塔の京橋警けいしょうだい鐘台(火の見櫓)に掲げられています。火の見櫓は京橋、京橋水管橋(登録有形文化財)と並んで岡山の近代化を代表する景観であると評価され、2006年1月20日登録有形文化財となりました。火の見櫓は火災や洪水などの急を知らせる重要な役割を果たし、今日では朝市に集う人々を温かく見守っていますが、設置者は県でも市でもなく、個人の坪田利吉です 岡山市教委文化財課資料等によれば、利吉は大正11年に旧県庁前(現・天神町)、旧専売局前(現・下石井)に2基建てたのをはじめ、昭和12年の引退までに12基の火の見櫓を寄附したそうで、この京橋警鐘台が最大規模のようです。利吉は広島県府中市生まれで全国を転々とし21歳のとき、岡山市小原町(現清輝橋)に暮らしはじめ、坪田姓の貧しい老夫婦の養子になりました。「万まん納のうや屋」という屋号で岡山城下を行商し、得た私財を、時には借金をしてまで慈善事業に充てたそうです。明治36年に岡山市船頭町、同小原町に無料宿泊所を開設したのを皮切りに、雨傘2,200本を小中学校に寄附、西川に第一~第三万納屋橋を架けており、そして警鐘台です。 また、奥市公園の外周、北側には石の腰掛台(ベンチ)が10基あり、摩耗していますが、「昭和二年五月寄附者坪田利吉」と判読できます。護国神社を参拝した人々の帰りの休憩用でしょうか。岡山市北区田町にある蓮昌寺境内には利吉が生前に建てた約5mの「坪田利吉君頌しょう徳とく碑ひ」が威容を見せています。自分で自分をほめたのでしょう。後に、利吉は「奉仕の権化」と称えられています。 大原孫三郎は外国に渡って絵を学べない人たちのために美術館(大原美術館)の建設を発起し、工場で働く人々の病気療養のために病院(倉敷中央病院)を建て、「三友寺」(岡山市中区門田屋敷)で孤児救援に立ち上がった石井十次を支援しました。また、1984年(昭和59年)に岡山市で設立されたAMDA(アジア医師連絡協議会)は、国内外の緊急救援に汗を流しています。利吉も孫三郎も十次もAMDAも、また映画化が進んでいる山室軍平も、そこに共通するのは高い理想と実践力です。公私混同し私益を公金で賄おうとしたり、脱税のために外国に預金口座を開設したりする人たちが昨今話題になっていますが、私たちは貧者の一いっ燈とうを尊しとしていきたいものです。京橋警鐘台(火の見櫓)奥市公園 石の腰掛台(ベンチ)坪田利吉君頌徳碑--13

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