岡山東 №104
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何かないかな? 歩いて探そう旧岡山市内その⑤ 現存する国宝史跡…岡山城の城郭を訪ねて 『元石関小僧』こと三村康彦です。 今回は令和4年11月に天守閣がリニューアルされた岡山城周辺を訪ねてみました。 いにしえより『金烏城』として名高い岡山城本丸は明治以降国宝に指定されましたが、岡山大空襲で灰燼に帰しました。明治期以降国宝に指定された城郭史跡は4箇所。そのうち本丸と石山門は焼失しました。大空襲の火炎の中を生き残った国宝の城郭史跡『月見櫓』『西丸西手櫓』に行ってみましょう。● 月見櫓(つきみやぐら)岡山城内本丸中の段北西角 月見橋南 月見櫓は池田忠雄(いけだただかつ)の城普請の元和~寛永年間(1615~1640頃)の創建と伝えられています。 忠雄の城普請は、防御力の強化として隅櫓や城門を増設し、中の段に城主の公邸の表書院を造り藩政を行う施設を建築しています。 月見櫓は内部の拝観はできませんが、一部地下付きの塗籠造り本瓦葺き二階建ての建物です。城外側から見ると二層の望楼型の外観ですが、城内側からは三層の層塔型の様相で、最下層は備蓄の倉庫とのことです。 月見櫓南前の表書院は、月見櫓と回廊で繋がって、中の段から本丸(本段)へ移動するために搦手門の上部に廊下門(北から入城する時の門)を設えていました。 現在、中の段表書院跡の部屋割りを示した配置図が地面に記されており、意外と小さな部屋割りに少し驚きます。 すぐ側には、中の段増築前の本丸の古い礎石(石垣)が発掘されており、地下に潜って見ることができます。 石積みは野面積ではなく、櫓の重量に耐え石垣の崩落を防止するために、隅角部を強固にする「算木積・打ち込み接」技法の大変美しい石組みで、本丸石垣(野面積)と対照的で、時代と技術の変遷を見ることができます。● 西丸西手櫓(にしのまる にしてやぐら)旧内山下小学校北西角 西丸西手櫓は、岡山城本丸の外周を固める帯曲輪である「二の丸内屋敷」の西側に位置する郭「西の丸」の西端を守る隅櫓で、慶長8年(1603)頃に建築と伝えられています。 1603年は関ヶ原合戦後、徳川家康が江戸幕府を開府した年です。江戸開府初頭期は再び戦乱が起こりうる時期の築城のため、櫓の設えも郭の角地を守るための鉄砲狭間・石落としがあります。城外壁面の開口部を極力小さくした実践防御設備を整え、城内側(写真参照)も土蔵造りです。二階からは城外側を臨む三方向に広く塗格子窓・出格子窓を備えた臨戦態勢を高めた造りです。 時を経て江戸安定期には池田光政の隠居所となり、西の丸と称されました。 昭和大空襲の災禍にも奇跡的に残り、創建当時のままの姿を今に留めています 現在は、内山下小学校の廃校に伴って訪れる人も少ないようですが、校庭の北西角に威風雄大そびえる西手櫓のエリアだけは時が止まったように感じられます。 二の丸の西面防備の西手櫓の礎石を見ると、背丈を越えた巨大な石を利用しています。櫓の重さをこの巨石が支えていると思うと壮観です。 現在は民間の駐車場から見ることができます。下の段 北西の角から見上げる月見櫓国宝顕彰の石柱北西外観:シンフォニーホール側より中の段表書院跡から北西角の月見櫓を望む11

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