東法人会 №101
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何かないかな? 歩いて探そう旧岡山市内その③ 時は大正…京橋で大正の起点元標を探してみる! 『元石関小僧』こと三村康彦です。今回は大正期の遺構を探して京橋界隈を散策です。大正時代の起点…道路元標 時代は下り大正となりました。それまで尺とメートルの両用だった『尺貫法』から、『度量衡法』の法律制定を受けてメートル法に基づく単位の統一がはかられました。それを受けて大正8年に道路法が公布されました。施行令が大正8年11月勅令460号として発せられ、「第九條 道路元標ハ各市町村ニ一箇ヲ置ク」とし、市町村単位で『道路元標』が設置されました。 現在も残っている『道路元標』は京橋の西南の石欄干横に設置されています。 京橋本体も土木学会選奨土木遺産で、この写真は大正6年3月20日 京橋架け替え完成記念時の様子。現在の京橋は当時のままの姿をとどめています。上写真2点:京橋の建造中の様子。左に架設されているのが鋼製水管橋。奥側が京橋東詰(中の島) 現在京橋に併設されている水管橋は、三野浄水場から市内へ給水するために、明治38年、全国で8番目の近代水道として設置されました。明治期に木製の橋であったために、管を通す強度不足のため専用橋として設置されました。岡山県内で現存する最古の鋼トラス橋で、鋼製水管橋として知られているなかで全国最古のものです。 京橋の工事写真について…平成30年10月19日から開催された「明治150年岡山の京橋~幕末、明治から大正へ~」展の資料から転載。この展覧会には大正期の京橋架け替えで設計にあたった岡山県の技手小西 隆氏が残した写真帖が出品されました。https://www.city.okayama.jp/kurashi/0000010021.html その後、大正11年に拡幅工事が行われ、京橋に路面電車が敷設されたのは大正12年7月9日のことでした。 京橋界隈にはいくつかの歴史遺構が残っています。 道路元標の電車道反対側の歩道花壇脇には迷子石標(迷子しるべは岡山市制施行後の初の社会事業で、探す人、見つけた人の連絡場所)と、岡山市役所建設(明治25年)を示す石碑が設置されています。この場所に市役所があったわけではなさそうです。地図写真:「デジタル岡山大百科」『岡山市明細地図 明治44年 大久保翠琴堂製』http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/kyo/M2004093016425442323 当時の岡山市役所は、東中山下旧深柢小学校(現川崎医科大学総合医療センター)敷地あたりに建設されていました。地図内の深柢小学校は柳川筋ができる前の掘割があったころで、現在の岡山電気軌道 田町駅電停あたりであったと推察されます。写真:「デジタル岡山大百科」 WEB公開 岡山県立図書館所蔵 『岡山市写真帳』大正15年5月発行 より転載http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/kento/T15/si/T15-shi-syasintyo-jpeg-06.htm路面電車通過写真:『岡山市写真帳』大正15年5月 岡山市役所発行http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/kento/T15/si/T15-shi-syasintyo-index.htm--15

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